プロフィールをご覧いただき、ありがとうございます。人の想いや価値を言葉で伝える執筆家の上山(うえやま)と申します。
私のコアとなるサービスは、クライアントが本当の自分を発見するためにご提供している個別の哲学対話セッションです。なぜ生まれてきたのか?どんな人生経験をして、何を学んだのか?誰のために、どんな目的でその仕事をしているのか?世の中にどうなってほしいのか?あなたはどうなりたいのか?つまり、あなたは何者なのか?を探求するためのサポートです。
なぜ執筆家が?と思われたかもしれませんね。実は順番が逆で、まず先に言葉の力を実感していたからこそ、結果的に執筆家というお仕事をさせていただています。執筆家としては、経営者の理念や商品サービスにかける想い、世界を変えていく情熱、お客様への愛情、そういった目に見えない本質を言語化しています。
それでは、なぜ個別の哲学対話セッションなのか?
人は本当の自分を知ることで、生きることに一切の迷いがなくなります。やるべきことが明確になり、モチベーションが湧いてきます。ネガティブな感情は消え、努力することなくポジティブな自分でいられます。誰かが引いたレールの上を走るのではなく、自分の手で新しいレールを引き、本当に行きたい場所へ辿り着くことができます。
言葉は心にアクセスするツールです。正しい言葉を正しい順序で潜在意識に取り込んでいくことで、本当の自分を知ることができ、なりたい自分になることができます。言葉はあなたを変え、世界を変えます。
私の過去
ここからは少しだけ私の過去についてお話しさせてください。私がこれまでにどんな人生を歩んできたのか?あなたにお伝えすることで、少しでも私とあなたとの距離を縮めることができたら幸いです。
失明しかける
まだ記憶にない2歳~3歳頃の出来事です。目と目の間、ちょうど眉間のすぐ下あたりに黒いデキモノが突如として現れました。最初は小さかったのですが、どんどん大きくなるので私の両親は病院に連れていき、そのデキモノを切除してもらいました。
ここまではよかったのですが、しばらくすると切除したものよりさらに大きく黒いデキモノが現れたのです。もちろん両親はまた病院に私を連れていき、もう一度デキモノを切除してもらいました。
すると、しばらくしてまたさらに大きく黒いデキモノが現れたのです。「またか・・・」両親は心配しながら私を病院に連れていきました。その時に医師から「このままではデキモノが目を塞いで失明するかもしれません」と言われたのです。
原因不明だったので医師も手の施しようがないといった状況でした。
「きっと切除したところでまたさらに大きく黒いデキモノが現れるんだろう。何度も病院で手術させてかわいそうだ・・・」そう思った両親は藁にもすがる想いで祈祷所に私を連れていったのです。
一通り祈祷が終わったあと、両親は祈祷師から「このお水を飲ませなさい」と一本の瓶を手渡されました。「お水か・・・」そう思いながらも信心深い両親は私にそのお水を飲ませました。
すると数日後、得体の知れない大きくて黒いデキモノが「ポロッ」と取れたのです!それからデキモノが現れることはありませんでした。あれはいったい何だったのかいまだに分かりませんが、今も私の眉間にはデキモノがあった跡が残っています。
不思議なことってあるものです。しかし、もう一つ不思議なことは、私が大人になってから両親に「あの時のお礼がしたいから、どこの祈祷師が教えてほしい」と尋ねても、いっさい答えてくれないことです。「ちゃんとしてあるから大丈夫だ」の一点張りなのです。いったい何があったのでしょう・・・。
いじめられる
私が小学四年生の時です。当時はいじめがあちこちで起こっていました。いつも誰かが誰かをいじめている状態です。言葉の暴力もあれば、私物にいたずらをされたり、集団行動で除け者にされたり。時代と言えば時代だったのかもしれません。
私の場合はクラスメイト全員から無視される行為でした。「あいつとは絶対しゃべるな」と指示を出す生徒がいて、周囲も面白がってその話に乗ってくるのです。何も会話をしていないのに訳もなく睨みつけてきます(当時は「ガンを飛ばす」なんて言っていましたが、今思えば小学生がガンを飛ばしているので滑稽ですよね)。
そんなある日、とある生徒と私がケンカになりました。もはや原因はまったく覚えていませんが、いじめという下地があったので私もやる気満々だったのだと思います。教室の後ろで取っ組み合いが始まったのです。
実は良いのか悪いのか、私は小学一年生から柔道を習っていて、自分で言うのも何ですが地元の大会で優勝するくらいの実力はありました。周囲の生徒に比べると体も大きく体重もあり、力も強かったのです。なので、その子を一撃で思いっきり殴り倒してしまったのです。
幸い相手に大きな怪我を負わせることはありませんでしたが、僕はそのまま机に突っ伏してワンワン泣いてしまいました。クラスメイトは「ケンカに買ったのにどうして泣いてるの?」と聞いてきましたが、それに答えずにワンワンないていました。
私は小心者です。何か大きなことをやらかしてしまったような気がして、子ども心に悲しくなったのです。
それからというもの、いじめはいっさいなくなりました。クラスメイトは手のひらを返したように友達面をして寄ってきました。いじめられないことはいいことですが、このとき人間の心の底に巣くっている何か恐ろしいものを感じました。
愛犬との別れ
小学五年生の頃です。いつも私は小学校から下校するとランドセルを自宅に置いてからすぐに友達の家に遊びに行っていました。公園で遊ぶ日もあれば、友達の家でゲームをする日もありました。当時はまだファミリーコンピューター(通称ファミコン)が全盛でしたね(懐かしい!という方は私と同世代です)。
ある日、私たちが家の中で遊んでいると友達の両親が一匹のワンちゃんを連れて帰ってきました。ワンちゃんはやせ細ったメスの雑種犬で、ひどく怯えた目をしてガタガタと震えていました。友達は両親のもとに行って何やら会話していました。
「ウチでは飼えないから保健所に連れていくところなんだ」「保健所に連れていくとどうなるの?」「それはな・・・」
どうやら前の飼い主が虐待をしていたらしく、とある人が引き取ったもののそこでも飼うことができず、結局友達の両親が保健所に連れていくように頼まれたそうです。
私は子どもながらにそのワンちゃんがこれからどんな目に会うのか察することができました。それから記憶があいまいなのですが、気づくと私はそのワンちゃんを連れて自宅に向かっていました。ビクビクしていて一歩も歩いてくれません。クーン、クーンと鳴くばかり。それでもリードを引っ張ったり抱き上げたりしながらようやく家に着きました。
その日の夜、私は必死に両親を説得して飼ってもらえることになりました。事後報告という強引な説得でしたが、結果的にワンちゃんの命が助かって私はとても清々しい気持ちになっていました。私はそのワンちゃんに「ラン」という名前を付けました。走るRUNと、お花の蘭をかけた名前です。
よく近所の神社に散歩に出かけで一緒に走り回っていました。お手ができるようになったり、お座りができるようになったり、ビクビクと怯えていたあの時のランはもういませんでした。しかし、ランとの幸せな日々は3年と続かなかったのです。
両親が動物病院に連れていってくれたので病名は覚えていませんが、容態が急変してから一週間もありませんでした。動かなくなってしまったラン、硬くなってしまったラン、私はランの横たわった体を撫でてあげながら、「幸せだったのかなー」と、涙がこぼれました。
大切な存在と強引に引き離されてしまう死、どんなに頑張っても絶対に再会できない死、永遠に消えない悲しみを残していく死、この経験から私は死について考えるようになりました。
音楽と夢
私を悲しみから救ってくれたのは音楽でした。子どもの頃から音楽が好きだったのです。小学校の時にはBOOWYを聴き、中学校ではクラシックを聴き、高校生になるとお年玉でシンセサイザーを買って作曲をしたり、中島みゆきさんの歌詞集を買って作詞のマネをしてみたり、ASKAさんや(先日亡くなられた)坂本龍一さんの楽曲を研究したり、パソコンに音楽ソフトを入れてシンセサイザーと同期させて真夜中までミキシングをしたり・・・そんなことに夢中になっていました。
そしてある日、大好きなASKAさんや氷室京介さんのミュージックビデオを見ながら気持ちを高ぶらせて決心したのです。「わしゃあ、東京行ってシンガーソングライターになっちゃる!」(←山口弁笑)当時18歳、高校三年生でした。
五年制の高専に通っていたので三年生で退学したいと申し出たところ、あらゆる大人からビックリするほど反対され、気の弱い私は一瞬にして高ぶらせた気持ちがシュンとしぼんでしまい、結局五年間で無事に卒業してから上京することになりました。(^-^;
住み込みで新聞配達
とはいえ、高専にまで行かせてくれた親の希望に沿うことができず、上京して自分の好きなことをするので親に金銭的な迷惑をかけたくなかったので、新聞奨学生(新聞配達することで授業料が免除される制度)として上京することにしました。
新聞販売店に住み込み、午前2時に起きて朝刊を配達し、昼間は音楽学校に通い、午後4時から夕刊を配達するといった毎日でした。雨の日はもちろん、大雪が降った日でも新聞を配達しなければなりません。大雪の日は自転車に乗れないので、販売所と配達エリアを徒歩で何往復もしながら配達して、配り終えて帰ってきたらもうお昼、ということもありました。
こんな生活が2年間続きます。
学校を卒業してからは音楽活動を優先するためにフリーターになりました。工事現場で働いたり、ウエイターをしたり、バーテンダーをしたり、青二才の田舎者が都会で生きていくために一生懸命に働きました。
しかし・・・
そんなバイト漬けの日々にいつしか「自分はいったい何のために上京してきたんだろう・・・」と、やるせない気持ちが胸を締め付けるようになりました。音楽活動をするために上京してきたのに、バイトと家事でほぼ一日が終わってしまっていたのです。
「自分の決断は間違っていたのかもしれない、どうせ夢なんて・・・」と、東横線の電車内から多摩川を眺めて涙をにじませたこともありました。「田舎に帰ろうかなぁ」と生まれ育った田園風景が頭をよぎりました。
結果からお話すると、残念ながら私の夢は叶いませんでした。それでも自分の決断に後悔はありません!行動した後悔よりも、行動しなかった後悔の方がよっぽど地獄です。上京を決意したあの時の自分は、間違いなくあの時の自分にとって最善の決断だったからです。今でもその決断をほめてあげたい気持ちでいっぱいです。
結婚と夢
夢をあきらめたキッカケは結婚でした。夢をあきらめることには何一つ後悔はありませんでした。シンガーソングライターになりたいと決断した時と同じくらい、「これが自分にとって最善の決断だ」と自分を信じられたのです。
彼女は二人の子どもを育てるシングルマザーでした。ただ、実はお付き合いし始めた時はその事実を知りませんでした。お付き合いし始めて何ヶ月か経ってから打ち明けられたのです。
「実は私、バツイチで子どもが二人いるの・・・」
これがまた不思議なことに、私には何の抵抗も違和感もありませんでした。「あー、そうなんだ、大変だよね?小さい子どもを二人も育ててるなんて」ということで、ごくごく自然な流れとして「じゃあ、一緒になろう!二人で育てよう」という結論に至ったのです。
当初は、子どもが新しいお父さん(私)になついてくれるか心配しましたが、とても明るくて優しい子どもたちで、私のそんな不安をあっという間に吹き飛ばし、すんなりと家族に迎え入れてくれました(お父さんと読んでもらうにはさらに数ヶ月が必要でしたが(^^♪)
フリーター生活に終止符を打った私は会社に就職し、4人の家族と彼女が飼っていた猫2匹と亀3匹と楽しい日々を過ごし始めました。会社は美容材料を扱うディーラーで、私は事務職として働き始めました。素晴らしい上司や仲間に恵まれ、結局この会社に19年間もの長い間お世話になりました。
私は当時24歳、そんな素晴らしい会社との出会いがあった一方で、入社して数年後、家庭では私の人生に大きな変化を起こす出来事がありました。
うつ病とパニック症
私が就職してから数年が経ち、仕事にも慣れてきたある日、妻から「何だかおかしいの。病院に連れて行って。精神科のある病院に・・・」と言われました。その時点ではまだ私はコトの重大さに気づいていませんでした。
私は心の中で「精神科って何を治すんだろう?妻は何に苦しんでいるんだろう?どこかが痛いわけでもなく・・・きっとすぐに良くなるだろう」と思っていたのです。しかし、妻はうつ病とパニック症と診断されてから20年以上、今でもお薬を手放すことができていません。
服薬治療が始まると、みるみるうちに症状が悪化していきました。お薬の量はどんどん増えていき、食事の度に両手いっぱいの錠剤を複数回に分けて飲み込む毎日でした。やがて自殺願望も強くなり、自分の身体を鋭利なもので傷つけるようになりました。
私は過去に親族を自殺でなくしています。夕食の支度をしている最中に首を吊ったのです、まるでふと思いついたかのように。そんな経験から私は、「人はほんの一瞬で死ねる」ということを知っていました。パートナーがうつ病になった経験をお持ちでない方には、当時の私の行動が理解できないかもしれません。
例えば、
- 二人でテレビを見ている時に妻がトイレに立つと、どのくらいの時間が経過したかを意識していました。少し長いと感じたら「おなか壊したの?」と声をかけに行きました。
- 妻がお風呂に入るとシャワーの流れる音や洗面器を置く音に耳を澄ませていました。無音が長く続くと用事があるフリをして「あのさぁ?」と声をかけました。
- 夜中に目が覚めると、妻が呼吸をしているかどうか確認しました。お腹あたりの布団に集中して動いているかどうか凝視したり、手のひらを眠る妻の口元に近づけたりしました。
私は会社員でしたので、日中は妻が何か早まったことをしないか見ることができません。昼休みにメールをして返信があると、「あー、午前中は生きていた」と胸を撫でおろし、また連絡のできない午後を過ごす日々でした。
会社から帰宅する際も、私は玄関のドアノブに手をかけて、「ふーっ」と一度深呼吸をしてから玄関を開けていました。覚悟を決めずに玄関を開けて、万が一の光景を目にしてしまったら、自分がおかしくなってしまうからです。
玄関を開けると奥の部屋まで聞こえる大声で「ただいまー」と叫びます。返事がなければ寝室や浴槽、トイレなど家中を探し回ります。幸い、返事がないときは眠っているときでした。
共倒れしないために
うつ病で一番苦しいのは本人ですが、パートナーも同じように苦しみます。事実、世の中ではうつ病患者をケアしていたパートナーが同じようにうつ病になってしまうという「共倒れ」があちこちで起きています。二人ともうつ病になってしまうとお互いの症状はどんどん悪化していきます。
だからこそ、パートナーは相手のうつ病をケアしながら、自分自身の心が折れないように精神をしっかりと保たなければいけません。日中には生きていくために仕事をしてお金を稼ぎ、仕事を終えて帰ってくれば家事をして生活を支えなければいけません。
私はこのような経験から、人の心について異常なまでの関心を抱くようになりました。人は何に傷つき、なぜ自分を失い、どのように苦しみ、どうやって自分と向き合い、何が影響して、どんなキッカケで前を向き、何と戦いながら自分を取り戻していくのか?
私は数々の心理学書を読み漁りました。カウンセリングも学びました。どんな声かけをしたらいいのか?どんな声かけが負担になるのか?どんな在り方で接すればいいのか?私は妻のうつ病をサポートしながら、まさに実生活を通じて、言葉と心について学びました。
当時もし私の心が折れていたなら、今このような形であなたに言葉を届けることはできなかったことでしょう。命の崖っぷちに立ち、人間同士の摩擦に揉まれ、実体験として学んできたのです。
言葉と心
うつ病の妻を支えている間、私を支えていてくれた言葉があります。この言葉のおかげで私は心が折れることなく、自分を保ち続けることができました。それは、「ニーバーの祈り」という言葉です。
神よ、変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け容れる冷静さを、変えられるものと変えられないものを見分ける智慧を与えたまえ。
正直、妻がうつ病で何もできなくなり、仕事や子育てや家事など私がすべてを背負ってた頃、「なんで自分ばかりがこんな目に会うのか」と、やり場のない憤りを感じていたことがありました。「このままでは自分がおかしくなってしまう」と、すっかり弱っていた時期もありました。
しかし、ニーバーの祈りという言葉に出会ってから考え方が変わったのです。誰かのせいにするのではなく、状況のせいにするのではなく、自分の捉え方が自分の人生を決めるんだ、ということに気づいたのです。そしてさらに、言葉には人を変える力ある!ということを実体験することができたのです。
私は今、人生を豊かにする言葉を探求し、世の中に向けて発信しています。言葉には人を変える力があります。言葉によって自分が変われば世界が変わります。個別の哲学対話セッションでは、クライアントが本当の自分を知り、なりたい自分を定義し、変わるための言葉を一緒に探求しています。
あなたはどんな言葉を大切にしていますか?どんな言葉に救われましたか?どんな言葉を支えにしていますか?ぜひ私にも聞かせてください。あなたからのメッセージをお待ちしています。